「神の御用」とはどんなものなのか?

日月神示を読み始めあるていど経過すると信仰心が芽生えるものです。

そして、信仰をし始めたら「何か神の御用をしなくてはならない!」といった感情が芽生えるのも当然ですね?

しかし、日月神示を読み始めた人は多くの場合団体にも所属しませんから、当面何をしていいか分かりません。

宗教団体に所属していれば、それぞれの団体の教えに沿って活動を勧められるので、それを疑いなく行動すればいいのですが、日月神示の場合には自分で考える必要があるのです・・・。

神の声は内側から聞こえる?

多くの宗教の教えでは、「神は内側にある」と言われますが、日月神示でも同じようなニュアンスで書かれています。

これについてに私の捉え方は、「自分の内側に神との交信機能が備わっている」というものです。

日月神示には、「毎朝神に今日命を授かったことを感謝すれば(祈れば)その日の仕事が与えられる」と書かれています。

そして人間はこの肉体だけではなく、精神もまた神から借りているものだと日月神示には書かれていますから、「ふと思いついたこと」こそが”神の声”だと私は思うのです。

毎朝目覚めたとき、その日「朝から晩まで何をすれかいいか?」ということくらいは誰でも思いつくはずです。

その”思いつき”こそが「神の御用」なのではないでしょうか?

それが宗教的でないことであっても、それは”内側からの声”なのです。

神秘的なことだけが神とのつながりではない?

日月神示の神が作ったとされる「三千世界」の構造は、人間の知恵では理解しきることはできません。

「人間万事塞翁が馬」のことわざにもあるように、一見悪いことであってもその後に幸運につながることもありあますし、その逆もあります。

人々が信仰心に目覚めると、慈愛が生まれ「何か善い行いをしたい!」と思って行動を考えますが、それ自体が神の御心に沿うものだとも限らないのです。

たとえば、人間の親が子供を教育するために、あえて辛い態度を取ることがあります。

親に辛い態度を取られた子供は悲しみ、成長のために苦労しますが、それを事情を知らない他人が「子供が可愛そうだから」と手を差し伸べてしまうと、親の計画が壊されてしまいます。

人間は神の子であり、辛い不幸な時期は成長を前提とした修行期間です。

それを神の計画も知らずに、むやみやたらと他人に手を差し伸べるようなことをするのは、神の計画を邪魔することにもなりかねません。

世の中全体が良い方向に向かうためには、1人の人間が”善行”だと思うことでも神の邪魔をしているという可能性もあるのです。

思いついたことをすぐにすること

また、日月神示では「人の考えが入ると間違える」と書かれています。

せっかく思いついた神からの声を、ああでもない、こうでもないと考えることで形が変わってしまうのです。

そして「思いついたことをすぐに行動するのが神の行」とも書かれています。

何気なしに思いついたことを、人間の都合でごちゃごちゃと考えず、スピーディーの行動することこそ、神の手足となって働くことなのです。

それは、大きな企業がある製品を作るとき、末端部品を作っている人が自分がいったいなんの製品のどの部品を作っているのか理解していないことに近いのではないでしょうか?

神様の大きな計画と仕組は、私たち人間が想像もつかないようなものですが、それでも私たちに何らかの理由があり、関わらせて頂いているのです。

それを疑わずにスピーディーに行動に移すことこそ、「神の御用をすること」になると、私は信じています。

まとめ

日月神示を読んで信仰をはじめると、とっかかりで「何をしていいか分からない」という手応えの無さを感じます。

そんなときには、「自分の心も体も神が作られたもの」と考え、心の奥から聞こえてくる得体の知れない感情の発起を”神の声”だと信じるように、私はしています。

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