神のおかげと人間の器

多くの人が神社仏閣に参拝をするときに、神仏にお願いごとをするはずです。

経済的に楽になりたいとか、受験に成功したいとか、スポーツの試合に勝ちたいとか、出世したいとか・・・。

最近では「神にお願いごとはしていけない」ということをみんさんご存知のようで、ただただ感謝をしたり、普段の生活の報告をするなど、立派な態度で参拝される人も増えているようですね。

どちらが正しいはここでは置いておいて「神のおかげと人間の器」について、日月神示を読んだ私なりの考えを述べたいと思います。

神はひたすらお恵みを与えたいと思われている

まず第一に知っておいた方が良いのは「神はひたすらおかげを与えたいと思われている」ということです。

ただただ、人間に対して与え続けるのが神なのです。

一時期取り上げられたように感じることであっても、それはさらに大きな幸福のために必要なことです。

太古の時代から、神はひたすら人間に幸を与え続け、これからもそうしたいとお考えなのです。

そしてそれが神の性質です。

神とは「弥栄」であり、その正体は「歓喜」なのだそうです。

おかげを受け取る人間に問題がある

神は人間におかげを与え続けているのですから、そのまま何も努力をせずに好きに生きていけば良いか?というと、それも少し違うようです。

神は人間に対して際限なくおかげを与えようとしているのですが、それを受け取る人間に問題があるとうけとるにも受け取れないのです。

それは日月神示では「人間の器」という言葉で示されています。

人間はお酒を入れる「枡」のようなものであり、その枡の中には人間の欲望や持ち物やいろんなものが入っているのです。

そして神に祈り「幸せをください、お恵みを下さい」と願うと、神はその枡にお恵みを入れようとされますが、すでにいろんなものが入っているために入れようとしても入らないのです。

一方的に際限なくおかげを与えようとする神なのですが、ただ一つ「枡が小さければ入らない」という事実だけは神でもどうすることもできないのです。

神にお恵みをいただくには、「今入っているものを捨てる」か「枡(器)を大きくするか」の2つの方法しかないのです。

人は成功するときに「何かを捨てている」

私は日月神示のこの一文を読んだときに、ある著述家が書いた本の中の一文を思い出しました。

著者も本の名前も忘れてしまいましたが、はっきりと覚えているのは「人間が成功するときには、同時に何かを諦めている(捨てている)」という一文です。

これは、神のおかげと人間の器の関係に非常に似ていると思います。

枡いっぱいにものを入れた状態では成功(おかげ)を自分の中に入れることはできないのでしょう。

何を捨て、どうやって器を広げるか?

では、神からたくさんのおかげをいただくために、「何を捨て、どうやって器を広げるか?」ということになります。

”人間の器”とは概念的で理解しきれないものです。

器の大きい人は穏やかで感情的にならず、大きな問題にぶち当たっても冷静でいられる・・・といったものが私の印象ですが、実際にどうしたら人間の器を大きくできるかは、私にはわかりません。

たくさんの苦労と努力を続けたりすると、器もしだいに大きくなってくるのではないか?というのが現在の私の考えです。

それはみなさんが考えてください。

そして「何を捨てればいいのか?」ということも、私には明確な答えは出せません。

ただし、最近流行っている”断捨離”的なものではないと思います。

日月神示では、一般的によく言われている「清貧」の感覚は間違いだと書かれています。

食物を極端に減らして粗末な衣服を着る仏教的な教えは間違いだということです。(欲望的に貪ることはいけないとも書かれていますが)

なので、これも私には「何を捨てればいいか?」というはっきりとした答えはありません。

そこはそれぞれが自分で考え、答えを出していくものだと思います。

おわりに

神へのお願い事について、いろんな考え方があると思います。

自分の願い事を神にするなど、失礼で見当違いだという人もいます。

私も以前まではそうでしたが、現在ではほどよく「お願い事」をするようにしています。

「願い事でもなんでも一度は神に言うだけは言ってみろ。聞くだけは聞いてやる」と日月神示に書かれているからです。(それと全く反対のことも書かれていますが)

神を自分の親のように身近に感じ、頼るだけ頼って、足りないところは自分で考えて直していこうというのが、私の現在の信仰のスタイルです。

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