みそぎと魂の洗濯について

日月神示を読んでいると、頻繁に「みそぎと魂の洗濯」と書かれています。

みそぎと魂の洗濯は同じ意味だと思います。

人類がこれから訪れるこれまで経験をしたことがなかった世界の建て替えの際に、今のままの魂のレベルでは不十分であり、もっと霊格を上げる必要があることは、日月神示だけでなく多くの信仰者・宗教の教祖・予言者・スピリチュアリストが言っています。

それでは、この「みそぎ(禊)と魂の洗濯」はどうすればできるのでしょうか?

これまで私なりに日月神示を読んだ私の現在の予想を書いています。

一般的な「善悪」では日月神示は読み解けない

日月神示の中によく書かれているお言葉に「今の善悪はすべてさかさま」というものがあります。

現在の世界で共通している善悪の概念はすべて間違っているということです。

これについては誤解も招く恐れがあるので、もっと自分の中で消化してから後にまた書いていこうと思います。

ただ、私たち現代人が思う善悪の概念では日月神示は読み解けないということは確かなようです。

善の行いをすることが信仰の基本ですから、その最初の概念が間違えていては「みそぎ」も「洗濯」もできません。

なので、まずこの部分を明確に理解できる文章がないか、私なりに日月神示の中を検索してみたのです。

かへりみる・はぢる・くゆる・おそる・さとる

そして私がこれではないか!?と思ったのがこの文章です。

『かへりみる・はぢる・くゆる・おそる・さとる 』

「かへりみる」は顧みるで、自分のこれまでの行いを再チェックすることです。

「はぢる」は恥じるであり、自分の行いや思いの中で良くない部分を恥じるのです。

「くゆる」は悔いるであり、後悔することです。

「おそる」は恐れるであり、「なんと恐ろしいことをしていたのか?」と神に対して恐怖を抱くことだと思います。

そして「さとる」は悟るであり、自分の過去の間違いから考え方を変えて成長することなのでしょう。

――最近では精神病に悩む方も増え、なるべくネガティブな発想からポジティブな発想へと変換することが推奨されています。

たしかに私もその方がいいと思います。

しかし、ここで紹介した日月神示の少しネガティブにも感じられるお言葉は、その使い方が違うのだと思うのです。

一般的にいうネガティブさとは、自分の心の中だけで完結するものです。

しかし、日月神示の「かへりみる・はぢる・くゆる・おそる・さとる 」は、すべて神を土台において考えることです。

カトリックでは神父に対して懺悔をしますが、それに近い感覚なのではないでしょうか?

なので、この一見してネガティブに感じるお言葉も、神と人間の関係性の中で「かへりみる・はぢる・くゆる・おそる・さとる 」を考えると、不思議と爽やかな精神を取り戻すことができるのです。

これは私も実践をしてみて本当にそう感じることができました。

「そもそもの始まり」から考えてみる

では、なぜ神に対して「かへりみる・はぢる・くゆる・おそる・さとる 」のかというと、それは”そもそも論”で考えればいいと思います。

日月神示には「この世のものは枯れ葉一枚まで神のものであり、人間はそれを借りているだけ」という一文があります。

そして、それは単なる”もの”だけではなく、人間の肉体も、心でさえも神から借用しているということです。

「心は自分のものだろ?」と思う方もいるでしょう。

その自分の心こそが自分の本体でと思うことは当然です。

それがなければ、どこから自分でどこから他人かわからなくなります。

しかし、人間はふっと思っても見なかったことを言ったり行動したりしますし、火事場のクソ力のようにピンチに陥ったときにとんでもない力を発揮したり、普段とは違うモードに入って思考したりします。

悪い例では「’魔が差す」ということもみなさん経験したことがあるはずです。

これこそが、私たちが私たちの本体だと思っている自分の心さえ、「神の持ち物」である証拠なのではないでしょうか?

死ぬとき、また眠るときにはそれを一度神にお返し、もし翌朝命があるならば、またその日一日すべてをお借りするのです。

これを前提に考えると、人間が神に対して何を顧み、恥じて、後悔し、恐れるのかが悟れると思います。

おわりに

みそぎと魂の洗濯の方法は他にもあるかもしれません。

日月神示を深く読まれている先輩たちで、その方法を突き止めているいる方がいれば教えていただきたいと思っています。

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