もしこの世の中が刑務所のような場所だとしたら

日月神示を読んでいてよく出てくるお言葉に「魂に汚れのない者はいない」というものがあります。

それは生まれたばかりの赤ちゃんであっても同じなのです。

私はこのお言葉を考えていて「もしかしたらこの世の中というものは”刑務所”のような罪を精算するための場所なのでは?」と思うようになりました。

この仮定を踏まえて世の中で起きることを見渡すと、これまで不条理・理不尽に感じていたことがすべて解決されてしまうのです。

生まれたての赤ちゃんでも穢れている?

一般的に赤ちゃんは無垢で汚れがないように思われますが、実は前世・前前世から引き継ぐ「精算のやり残し」が魂にこびりついているようです。

これは輪廻転生の存在を前提に考えれば簡単に納得できることです。

哲学や倫理、社会の常識では、罪を犯したものが悪で、そうでないものは穢のない者・・・というふうに帰結されます。

確かにそれも正しいのでしょうが、それではなんの罪もない人が、いわれのない犯罪に巻き込まれたり、他者から傷つけられたり、あるいは災害で被害を受けることは”理不尽”になってしまいます。

昔から信仰心がある人でも、この人間の考えによる「善と悪の感覚」に誤解があったことで、家族や大切な人を亡くしてしまったり、あるいは自分自身が納得できない不幸に見舞われたときに信仰心を捨ててしまうようなことが起きるのです。

「前世からの罪」「前前世からの魂の汚れの持ち越し」があると考えれば、世の中の理不尽が理不尽と考えなくなります。

今世では落ち度のない人生を送っていたとしても、前世・前前世・前前前世で罪を重ねた可能性は十分にあるはずです。

不幸・苦労は魂の洗濯

日月神示では、不幸や苦労は「魂の洗濯」だとよく書かれています。

”洗濯”は魂の浄化作用のことであり、それによって神が求める人間へと成長するために鍛えられるのです。

神がなぜ人間を創造したかはもちろん私には理解できませんが、何らかの理由によって、神の作品である人間は鍛えたり洗濯したりする必要があるのでしょう。

実際にたくさんの苦労をした人に人格者が多く思われますし、大病や大きな災害を被災した人々を見ると、どこか清々しく器が大きくなったように感じることがあります。

これこそが「魂の穢が洗われた状態」なのではないでしょうか?

この世の中が「刑務所」だったとしたら・・・

ここで本題の「もしこの世の中が刑務所だったとしたら」です。

現在の人間の世界で”罪を償うところ”と言えば「刑務所」です。

実際にそのような目的で機能しているかどうかは別として、当初の目的はそうであったはずです。

そして、もし人間の本来いる場所が現世界ではなく死後の世界であったとしたら、そこで何らかの罪を犯したり、あるいは前世・前前世・前前前世で犯した罪と魂に付着した穢を取り払うためにこの世の中が作られたのだとしたら、人間が取るべき行動、あるいは考えなくてはならないことも現代の常識とは大きく違ってくるはずです。

現在の人間の社会で、社会で犯罪を犯した人が刑務所で贅沢な生活をし、自分が犯した罪も省みず、また被害を与えた人のことを忘れ反省もしないのであれば、塀の外の社会で暮らす人は納得しないでしょう。

また、よく世間で言われる「人間は幸せになるために生まれてきた」という考えも、もしこの世が刑務所だったら間違っていることになるのではないでしょうか。

このように、「人間は穢れている」という考えは、決して日月神示の中にだけ書かれているものではなく、キリスト教や仏教にも似たような意味合いの言葉が伝えられています。

穢を洗濯する際の態度

人間のすべてに罪と魂の穢があり、この世が刑務所のようにそれを償うところであるとすれば、人はどのような生活をし、そして考えればよいのでしょうか?

人間の世界の刑務所であれば、犯罪被害者たちは被害を被った人の何倍も辛い地獄のような生活をすることを望むかもしれません。

しかし、少し信仰心のある人ならば、この考えが「復讐心」であり、持ってはいけない感情であることを知っているはずです。

また日月神示では、人間に罪穢れがあるとした上で「思案投げ首を神は嫌う」とも書かれているのです。

思案投げ首とは、思い悩み思考の迷路に落ち込んで何も行動できない状態のことを言います。

これは、ただただ反省し・悔み・辛い思いをする・・・ということです。

自分の罪と魂の汚れを償うには、過去にしたことを絶対に忘れず、そして「一段高い善人になる努力をする」ということだと、私は思っています。

もちろん反省も後悔も申し訳なさも感じつつ、さらに”積極的に行動”しなくては、本当の贖罪は果たせないのではないでしょうか?

昔から日本人が「もったいない」という感覚を身に着けていたのも、その核の部分にもこういった考えがあったのではないかと思います。

なぜなら「人は幸せになるために生まれてきた」という価値観から「もったいない」という感覚は生まれないからです。

幸せになるために生まれてきたのであれば、幸福を形作る要素は「あって当たり前」です。

しかし、人間は罪深い生き物で、前世以前に犯した罪を償うために生を受けていると考えていれば「こんな私にこんな贅沢なものを与えて下さるなんて、ありがたいことだ」という思考にたどり着くはずです。

まとめ

これは私が日月神示を読んで思いついた私感にしか過ぎません。

私は霊能力者でも宗教の教祖でも、神から啓示を受けた者でもありませんし、現社会で地位のある人間ではないので、決して「この考えは間違いがない」とは言えません。

しかし、何か世の中に理不尽や不条理を感じ、気持ちの置所を失ってしまった人は、この私の思いつきのような、発想の転換をされてみてもよいのではないでしょうか。