日月神示から読み解く「信仰心と生活スタイル」のこと

一般的に信心をし、より高みを目指そうとする場合、カソリックでは修道院に入ったり、仏教では出家をするなど「世俗と自分を切り離し欲を禁ずる」ことが究極系だと思われているようです。

”すべてを神に捧げる”というその姿勢と覚悟は尊敬しますが、日月神示を読み進めるうちに、これが間違いではないか?と思うようになりました。

これは確定的にそう書かれているわけではなく、日月神示に散りばめられている短い御言葉の集まりによって、そういう結論に達したのです。

神のことで収入を得ることは許されない

以前にも何度が書きましたが、日月神示ではお宮を守ったり祭祀をしたり、あるいは自然に集まった信仰集団のお世話などをすることで、収入を得ることは悪だとされています。

自分の仕事をしながら、そういった信心における細かな業務も同時にしていかなくてはならないのです。

要するに、”専業的”な信心よりも”副業的”な信心をするように言われているわけです。

それだけ、社会における人が就く仕事というのは尊いものであり、それらを捨てて神様のことだけをすることは良いことではないのです。

「大工は大工の大峠、左官は左官の大峠を超えなければならない」

というお言葉もあり、人が社会活動の中で就いている仕事は、現在のまま高みを目指して追求することが大切なのです。

■禁欲など特殊な修行も必要ない

また、日月神示では、いかにも「坊主らしい坊主ではいけない」とも書かれています。

俗世間と自分を寸断し、修行に邁進することは、”本当の人間修行ではない”というふうに私は理解しています。

極端に少ない食事・禁欲などといった、いかにも修行らしい修行も意味のあることではないのです。

信仰心に目覚めたなら、世俗から抜け出すような生活スタイルに変えるのではなく、現在与えられている環境の中で、神様の教えを言動に反映させて生きていくスタイルが、日月神示の教えの基本なのです。

むしろ、人が持つ欲を断ち切るような「戒律」こそ”悪”なのだそうです。

■霊力は本当の信仰ではない

霞を食べて神通力を会得し、雲に乗って空を飛び回る”仙人”を目指す、中国の「仙道」のようなものが進行の究極系だと勘違いされますが、これも日月神示の教えでは”悪的思考”なのです。

また占い・霊媒、あるいは透視能力・予知能力など、いわゆる「霊力」を使うのも良しとはされていません。

そういったものに頼ることも褒められたものではなく、これは多くの信仰者が陥る失敗だと私は理解をしています。

「奇跡のないことが奇跡」

と書かれているように、この神界・霊界・現界を含めた世界を構築したのが総元の神(創造主)であり、それこそが奇跡だということなのではないでしょうか?

私はこう考えます。

現界と霊界の行き来が出来ないように神は世界を設計し、それには意味があります

なのに人間がその境界線を超えた力を得ようとするのは、神に対する反抗ではないか?

仮にそういったことが所々で時折起きるのは、コンピューターでいう”バグ”のようなものではないか?

この現実の世界で生活している以上は、あの世の力を使わず、与えられた身体と気力だけで生きるのが、人の正しいスタイルなのだと思います。

■さいごに

信仰心に芽生えたとき、ここで書かれたようなことを求め出したら、その信仰心は間違った道に逸れようとしているのではないでしょうか?

人間は非常に弱く怠惰な生き物だと思います。

私も日々、自分の信仰心が歪んでしまわないように注意しています。