信仰をする者の心構え・姿勢

はじめに

日月神示だけではなく、どんな宗教・神・仏を信心している場合でも、「信仰の心構え・姿勢」は大切なものだと思います。

心構えと姿勢を間違えてしまうと、たんなる「派閥争い」になる危険性があるのではないでしょうか。

「自分の信じる神・宗派が正しい=他の信仰の排斥」ということにならないためにも、ふだんから心構えと姿勢を意識することは大切だと思っています。

日月神示を読んで、そういった観点に対してのヒントとなるお言葉をいくつか発見したので、少し書いてみようと思います。

教えを信じることと異教に対する姿勢

たとえば、宗教をしている2人の人がいるとします。

この2人が会話をすれば、やはりどこかで「教えの違い」によって議論が起きることになるでしょう。

お互いに自分の信じる宗教の教えを誇示して議論は白熱し、平行線のまま会話は終わってしまうはずです。

そして、しばらくして議論をした相手に不幸が訪れるとします。

そのときに、「やはり自分の信じる宗教のほうが正しかったのだ!」と思うような信仰の姿勢は間違いだと思います。

そういったシチュエーションのことが、日月神示にはちゃんと書かれています。

不幸になった意見の合わない相手に対して「『それみたことか!』と考える者は間違いである」と書かれているのです。

その思いこそが《悪》であるということです。

こういたことは、宗教・信仰の勉強をしてある程度のレベルに達した人が陥りやすいものです。

もちろん、私自身もそのことについては常にセルフチェックしていかなくてはならないと考えています。

どんな宗教をしている人、どんな神を信じている人であっても、または無宗教者であってもすべて「神の子供」です。

自分の信じる宗教・神の教えを広めることも大切かもしれませんが、それが強引だったり、自己顕示欲を含むものであったりすることは避けたいものです。

そういった負の考えを抱くことは避けなければなりませんし、不幸に陥った人に「良いタイミングだ」と自分の信じる信仰を押し付けるのも良くないと思います。

ならば、自分と意見や価値観が合わなかった相手に対してどういった態度、言動をすれば良いか?となりますが、その答えを私は断言できるほど持っていません。

「ただただ手を差し伸べる」ことをすればいいのではないか?とは思っていますが…。

悪を抱き参らせる

日月神示を読んだことがある人ならば、「悪を殺して(排除して)はならない、悪は『抱き参らせる』」と頻繁に書かれていることに気づくはずです。

これは今まで日月神示と出会う前に知った他の宗教では、ここまでダイレクトで明確に書かれた教えを私は知りません。(もしかしたら私が見落としていたのかもしれませんが)

「悪を抱き参らせる」ということは、《悪を憎み排除する》《悪を殲滅する》という考えとは真逆のものであることなのでしょう。

私も毎日日月神示を読みます。

しかし、残念ながら「悪を抱き参らせる」という教えについて、十分な修得はできていません。

なんとなく「こうではないか?」と日々何かが起きたタイミングで思いを馳せる程度です。

ただ、「勧善懲悪」的なものではないということは確信しています。

勧善懲悪的な考えでは「悪いことをしたらこんなひどい目に合う」といったふうになります。

たとえば犯罪のニュースを見れば、犯人のことを憎く思う人は多いはずです。

その犯人が無期懲役・死刑といった重い刑罰が下されたときに「それみたことか!残りの人生を反省して生きろ!」なんて思うことは《悪》なのだと思います。

罪を知ったときに憤りを感じるのは善人の共通点だと思いますが、そんなふうに考えが及ぶこともまた良い考え方、姿勢ではないと思うのです。

善玉菌と悪玉菌

日本の神道のには経典はありませんが、神話の継承などによって引き継がれてきているようです。

日月神示でも使う天津祝詞などには、物語性があり神話とつながりそれを「神の教え」とされているようです。

ある神道研究者は、「神話・祝詞は宇宙のシステムを表している」という説をあげています。

宇宙のシステムは、この世の中にある科学的にも証明されるあらゆるもののシステムであり、宇宙の仕組みから素粒子・物理学的・数学的すべてをふくんだシステムのことです。

これらを神道・神話が表しているのではないか?と考えるのです。

それはもちろん「人体のシステム」も含みます。

たとえば、頭脳=天照大神、腸=大国主大神といった感じです。

人体システムもまた、「神の法則」を基盤として作られているという考えは、非常に興味深いもので、私も共感しています。

――人の腸内には「腸内細菌」があり、それは《善玉菌》と《悪玉菌》に分類することができます。

日月神示の「悪を抱き参らせる」を理解しきれていない私は、これら腸内細菌がヒントになるのではないか?と考えました。

善玉菌とは乳酸菌などの人体にとって有益な働きをする腸内細菌であり、健康体を維持するためには善玉菌の比率を上げることが大切なのだそうです。

逆に悪玉菌とはウェルシュ菌という、増えすぎると有害な菌です。

「腸内環境と整える」ということは、イコール「善玉菌を増やす」ということは医学でも証明されているのですが、だからといって「悪玉菌を殲滅」させることもまた良いことではないのだそうです。

《悪玉》と呼ばれるウェルシュ菌ですが、肉類など人間の体に負担の大きな食物を食べ過ぎたときに、善玉菌では対処できないのです。

そのときに悪玉菌であるウェルシュ菌が一気に増殖して、肉類を腐敗させて体外に排出するのです。

このウエルシュ菌の排出作用がなければ、一層ひどい健康被害に陥ります。

悪玉菌は「必要悪」ということなのでしょう。

一定数の存在は認めなければなりません。

この人間の腸内の機能に、「悪を抱き参らせる」を深い意味で理解するヒントがあるのではないか?と私は思うのです。

人間の社会の中にも、善玉菌と悪玉菌はいるのではないでしょうか?

一般的に「悪人」と言われる人に対する「善人の立ち位置と行動」を考えてみると、「悪を殲滅させること」は手放しで正しいとは言えないように、私は思っています。

まとめ

自分の信仰に対する心構えや姿勢は、一生かかって自分自身で考えるものだと思います。

信仰者がそれぞれに自分の頭で考え答えを出していくものなのでしょう。

この章で書いたものは、私の「信仰に対する考えの断片」ですが、なにかのヒントになれば幸いです。

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