日月神示には天之日津久の神をはじめ、じつに多くの神の名が挙げられています。
そして、仏教徒は仏教として、クリスチャンならクリスチャンとして、イスラム教ならばムスリムとしての祈りを捧げることを日月神示では書かれています。
「祈り」は信仰をする上で非常に重要で、そして勘違いをしてしまうなどの難しさも持ち合わせます。
私も”祈り方”については非常に悩みましたし、そしてそれは現在でも変わりません。
日月神示には「祈り」についていくつかヒントとなるような言葉が書かれているので、それを中心に私なりの解釈を書いてみたいと思います。
どの神を祈ればいいのか?
日月神示では、「お神示」を読むことは強く勧められていますが、「他の宗教をやめて日月神示だけを拝め」とは書かれていません。
また、仏教徒は仏教徒のまま、クリスチャンはクリスチャンのまま、ムスリムはムスリムのまま改心をし、そして高次元への向上を促されています。
その宗教に属した人は、「その集団の一員」であり、それをやめろとは言われていないのです。
日月神示自体は「道」であり、「宗教」ではないとのことです。
また、日本には八百万の神が各地に祀られ、それを信心している方も多いかと思います。
なので、どんな神を祈るか?ということが決定的ではなく、要は「祈り方」が大切なのであり、現在悪い状態にある方は、祈り方に問題があると考えられるので、一度自分自身をかえりみてみることをおすすめします。
悪神について
どの神でも心配なくお祈りを捧げて良いと日月神示には書かれていますが、それでも「悪神」がいることもはっきりと明記されています。
もちろん悪神に波調が合ってしまうと、よからぬ事態を招きますので、正しい神に祈りを捧げなくてはならないということは基本です。
日月神示にはこういったことが書かれています。
『悪いキで拝めば何んな立派な神前でも悪神が感応するぢや。悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引込んで、それぞれの善き神現はれるのぢや』
これはある意味、神と人と信仰と生活と、そして祈りについての核心部分を表す言葉ではないでしょうか。
人が神について祈りを捧げるときには、「どの神へ祈るか」よりも、むしろ「どんな祈り方をするか」が大切だということです。
とくに最近では、宗教団体運営の退廃が取り上げられることが多くなっています。
純粋な気持ちでその宗教の神に祈りを捧げている人なら、自分の属している宗教団体の運営が腐敗していることを知ると愕然とし、その神にさへ疑いの目を向けるといったことにもなりかねません。
しかし、その宗教団体は悪神に取りつかれてしまったとしても、その団体で正しい心で信心をしている人には罪はないのです。
私は、それが”カルト宗教”のような団体であっても同様だと思っています。
自分だけでも正しく祈れば、その媒体となっている団体が悪くとも、正しい神と波調を合わせることは可能なのです。
聖地について
どの宗教団体でも「聖地」があるはずです。
聖地には意味も価値もあり、尊いものではありますが、日月神示には、
「どこで祈っても同じ。ただ、お山(聖地)も大切だから、機会があれば参れば良い」
と説かれています。
聖地は聖地で大切にする必要はありますが、そこに行かなくてはレベルの高い祈りができないわけではないということです。
それよりも、祈りの質を上げ、そして日常の生活を正すこと自体が「大切な祈りの核心」であるということです。
「祈り地獄」について
日月神示では、他の宗教とは違い、一般的な生活をやめて祈りをすることを禁じています。
一部の人をのぞき、現代では仕事をしなくては生活をすることができません。
信仰をはじめてその素晴らしさに気づきを得た人の中には、「もっと神様のことをしたい。祈りを捧げたい」と考えるものですが、これを「祈り地獄」と日月神示には書かれ、注意されているのです。
現在のしている仕事(社会的な)こそ、人間が今すべきことなのであり、神様に祈り、その考えを仕事に反映させることが正しい祈りの姿勢なのです。
仕事もせずに信仰だけをして、超人・仙人のようになり、普通の人が持たない超次元の能力を身に着けようなどという考えは間違いなのです。
まとめ
信仰する上において欠かせないものが「祈り」であり、信仰の基本でもあります。
しかし、現代人はそんなかんたんで初歩的なことですら確証をもてず、誤った道に逸れてしまいがちです。
そしてそれは日月神示を読んで信心をする上においても同様です。
「神様に祈っているから大丈夫」などと思考を止めずに、常に自分の信仰心を疑いチェックすることが大切だと私は考えています。