「悪」に対する考え方

このブログを読まれている方はきっと「善人」のはずです。
そして、善人でいるにも関わらず人生が思うようにいかなかったり、あるいは自分の信仰のありかたについてネット上で知識を深めようとしているはずです。
そして、その善人の行く手を阻むのが「悪」の存在でしょう。
多くの信仰者、善人の方を苦しめる「悪」に対し、私が日月神示を読んで思った考えを書いていきたいと思います。

日月神示の中の「悪」の感覚

まず「悪の概念」が正しいかどうかを考える必要があります。
悪人とは犯罪者やモラル・常識から外れる人、あるいは他人を傷つける人といったイメージがあります。

また病気や災害、モノの故障や正常な状態を邪魔する要素などに「悪」という言葉を使います。
そして、「善」はその反対の性質を持つものです。

世の中の人は、できれば「悪は無くなれば良い」と思っていますし、そしてその悪は”絶対的・普遍的”なものとして捉えているのではないでしょうか?

しかし、日月神示を読み進めていくにしたがい、その多くの人が捉える「悪の概念」が少し違う感じがしてくるのです。

「悪」は絶対的・普遍的なものではなく、相対的・不安定なものであり、言い換えると陰と陽、光と影のような感覚です。
「善悪」は決して「良し悪し」ではなく、単なる”性質の違うもの”という気がしてきます。

日月神示を読み解くには、そういった感覚面での改革が必要になります。
”善と悪”の感覚も、これまでのものとは違った捉え方をする必要がありそうなのです。

「悪」も必要な存在?

よくこういった言葉を映画やドラマなどで聞くことがあります。

「この世に神がいるなら、なぜ悪人を作られた!?」

これは善人が過酷な運命に遭遇し、これまでの信仰心が破壊されそうになったときに、よく叫ぶ言葉ですね?

人間は神の子供であり、そして人間は神に愛されている・・・。

いわば神は善の究極系であり、そして人間もまた善人の分身であるはずなのに、なぜこの世の中を創造された最高神は「悪」という存在をお創りになられたのでしょうか?

私が日月神示を読んで得た、この疑問の答えは、

「悪も必要だから」

です。

ただし、前項でも書いたように、この場合の悪とは、多くの人が思う悪ではなく、「陰と陽」「光と影」のような意味です。

この両極端の核があってこそ、この世界が構築されて活動していけるのです。

東洋思想はこの”世界の仕組み”について、古くから一定の答えを出していて、それが陰陽の思想につながっています。

光に対して影があり、火に対して水があり、男に対して女があり・・・現実世界のあらゆるものはそうやって形を成しています。

こうした意味で「悪は必要」なのです。

善悪だけではない?

そして日月神示にはもう一つ大切なことが書かれています。
東洋思想は「陰と陽」の法則を見つけだしたのですが、それだけで世界のすべての悩みを解決できるものではありませんでした。

要するに「不完全な考え」だということです。
私がそう思った理由も、日月神示には書かれています。

善と悪、は単なる性質の違いであり、それにプラスして考えなくてはならないのが「力」です。

日月神示には「悪があるから力が出る」と書かれています。

そして、その力があるからこそ人間と世界は成長し、そして向上していくのです。

これを神道では「弥栄」と呼びます。

世界は、世界の創生から現在まで確実に進歩・向上・成長し、それを成し遂げるためには「悪」の存在が必須なのです。


「宇宙は常に生まれている」


これは日月神示の「地震の巻」の冒頭に書かれたお言葉ですが、この一文は日月神示を読み考えるときのベースになります。

世の中の悪的な要素こそが、向上・発展・成長の、あるいは活力の源になるのです。

「必要は発明の母」

という言葉がありますが、これの”必要”というのも、悪の要素がもたらした不足状態を補うものだとも言えます。
善人は何もしなくても善人ですが、そのままでは成長しません。

より高いステージに上がるためには、「悪を乗り越える」という過程が必要になるのです。

悪は排除してはいけない?

ここまで考えると、「悪」や「悪的要素」は神が人間に与えた恩恵であるとも考えられます。

トラブル、災難、苦難、障害を乗り越えた人が大きく成長するのを見ても、それは明らかなことだと思います。

人間も世界もありとあらゆるものが、善が悪と接触するときに力が生まれ、それが成長につながるのです。

――では、「悪人」の存在はどうなのでしょうか?

犯罪を犯す人、社会に害を与える人もまた必要なのか?というと、これは感覚的には賛成することができません。
できればそういった人は現れないほうがいいに決まっています。


しかし、おそらく神の御心では、そこに必要だから悪人というものを生み出されているのだと私は考えます。

悪人は、近視眼的な見方では理解できなくても、やはり人間と文明、世界が成長するために何らかの意味や役割があるのでしょう。


「この世にあるものはすべて神の許しを得て存在している」


と日月神示に書かれているように、悪人もまたこの世の中に必要不可欠な存在なのだと思います。

そしてこれら悪人も含めた「悪」は”排除”をしてはいけないそうなのだとも書かれています。


「悪を殺すと善も死ぬ」
「悪は抱き参らせよ」


非常に理解に苦しむ言葉ですが、悪を排除しようとする心が悪なのであり、それを受け入れ、そして昇華させるという意味だと思います。

実例として考えられるのは、次のようなことなのではないでしょうか・・・。
たとえば犯罪に手を染めた人がいたとします。

その人をその人も含めた集団、社会から排除したり、あるいは牢屋に押し込んだり、あるいはもっと極端に殺してしまうという手段は”悪を排除する”という行為だと思います。

そうではなく、その悪人を更生させて善人に生まれ返らせる方法というのが、「抱き参らせる」というものなのではないかと私は考えます。

悪がこの世にも存在価値があるのだとしたら、排除をしてもまた神によって作られてしまいます。

また違った見方をすると「悪は善のためにある」のですから、神は排除をしてもまたつくられるのです。

さいごに

「善悪」の捉え方は信仰を続ける上において非常に重要です。
また、その善悪の価値観そのものも、それぞれの人の霊的ステージの高さによって違いがあるとも言います。
今回書かせていただいたこの記事も、現在の私が現在の私の霊的レベルの中で書いたものですので、読む人によって賛否はあろうかと思います。

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