はじめに
日月神示を読み始めると、心がきれいになったり、正義感が芽生えたりします。
何が本当に正しくて、何が間違いなのか・・・そういった正しい認識力が徐々に培われていくのです。
しかし、この初期の段階で勘違いをしてしまうことがよくあるようです。
日月神示を読み進め、善悪の判断ができるようになったとき、”他人が悪く見えるようになった”と思ったら要注意です・・・。
他人が悪く見える理由は何?
日月神示を読むと、心と知性に改革がもたらされます。
そして、以前までは知ることができなかった人間社会の真実や、先のことなどもほんの少し見えてくるようになるはずです。
しかし、こういった”知識”として日月神示を理解してしまうと、思わぬ落とし穴にはまり込んでしまうことが少なくないのです。
日月神示にはこういった一文が書かれています。
たとえ日月神示を読んで知り得た正しい知識や思想であっても、それを知って他人が悪く見えるようでは、本当の意味で理解をしていないということです。
私もまた同じ落とし穴にはまってしまった経験があります。
私は日月神示を知る以前に、哲学者の中村元氏の著作である『原始仏典』に感銘し、初期仏教の思想を勉強していました。
そこから紆余曲折あり、日月神示と出会ったのですが、多くの相違点を発見しました。
また、当時の私は現状の日本仏教のあり方にも大きな疑問を持っていて、日月神示を読み始めて以降、仏教のことをかなり悪く捉えていたのです。
そんなときにこの一文が目に止まり、自分が大きな勘違いをしていることに気づきました。
どれだけ正しい知識を持ったとしても、他人の考えや生き方、またその存在自体を否定するような感覚になってしまうと、それは”神示を正しく理解していない”ということになるのです。
何かに付けて批判的になったり、あるいは評論的な思考に陥るのは、それは「自分が曇っている証拠」だということです。
人によって見え方が違う悪
悪的な事象が目の前で起きたとき、あるいは複数人の人が1人の悪人を見ているときなど、それぞれに違った印象を持ち、違った判断をします。
その違いこそが、その人の心と魂、霊性の違いなのです。
――1人の犯罪者がいたとします。
ある人は「最悪の人間だ!糾弾しなくてはならない!」と考えるでしょうし、またある人は、「あんな人間は我々の社会(コミュニティー)には必要がない!」さらには「あんな人間は生きる資格がない!」と考えるかもしれません。
しかし、一方では「なぜあんな非人道的な行為をしてしまったのか?犯人もまた不幸である」と憐憫の情を持つ人もいるでしょう。
中には「あの犯罪者も人間なのだから、いつか更生できるはずだ」とか「なんとかあの犯罪者に人の道を教えてやりたい」と思う人もいるはずです。
1人の犯罪者(悪)であっても、見る人によって、心の中に思うことはそれぞれ違うのです。
私も真実を知るような偉い人間ではありませんが、おそらく後者の方が、日月神示的な価値観だと思います。
また、相手が犯罪者のような分かりやすい悪でなくても、軽くモラルに反することや、ほんの少し常識から外れた言動をする人に対しても同じです。
さらには、その人が神を信じない無信仰者であっても同様です。
やはり「相手が悪く映るのであれば、それは見ている人の心が曇っているから」なのです。
悪に対する対峙の仕方
悪は悪です。
社会の迷惑になる行為や、人間性を疑う言動、法律を犯す行為などをニュースや実生活で目の当たりにすると、善人ならば嫌悪感を抱くはずです。
もちろん、日月神示を読まれた方なら、なお一層悪に対してマイナスの思いで見つめるでしょう。
しかし、日月神示にはこういった一文もあります。
『悪を殺すことは神を殺すこと』
多くの善人は、犯罪者を憎み、そして相応の罰(逮捕・罰金・懲役・社会的制裁など)を受けることを望みます。
しかし、それは”悪を殺すこと”、”悪を排除すること”につながる考えではないでしょうか?
悪は悪ですが、それを排除しようとすることは、日月神示ではそれ自体が「悪」だと書かれているのです。
正しい考えは、”悪を排除(殺す)こと”ではなく、
『悪を抱き参らせる』
ことです。
正直、私はまだこのお言葉の真意を心から理解はできていません。
現在では、悪を排除したり憎んだりするのではなく、”悪を改心させて善に好転させる”という理解に落ち着いています。
日月神示的には、これが悪との正しい対峙の方法だと思います。
「罪を憎んで人を憎まず」も間違いかもしれない
善の心が芽生えると共に悪に対しての嫌悪感も強くなります。
そして、その考え方こそが間違いであるということをここまで書いてきました。
古くからくこういった言葉あるはずです。
「罪を憎んで人を憎まず」
この言葉は多くの人が正しいことだと思われているはずです。
しかし、日月神示を読み進めていくと、この言葉も間違いであることがわかります。
「罪=悪」ということになりますが、日月神示では、罪/悪そのものを嫌ってはいけないと書かれているのです。
『神には善悪の概念はない』
のです。
とくに日月神示の基本となる大神の根本は「歓喜」と「愛」であり、そこには善悪の線引きすら存在しないのです。
神を信じない人がよく言われる言葉に、
「もしこの世に神がいるなら、なぜ殺人や犯罪・戦争・天災・病気など人間を苦しめる様々な災いをお作りになられたのか?」
というものがあります。
じつは私も昔同じようなことを考えていました。
しかし、これも日月神示を読み進めていくことで疑問が解消されました。
この世を作った大神様は、歓喜であり愛であり、また世の中の悪的・ネガティブな事象や存在もまたすべて歓喜と愛から派生しているということです。
1人の人間だけではなく、世の中のすべての物と現象は、悪がなければ”成長”しないのです。
そして、その「成長」こそが、日本的信仰心、あるいは神の大きな性質である「弥栄(いやさか)」ということになります。
『神の国でも半分は嫌なことでできている』
とも書かれています。
天国的様相を呈しているはずの神の国でさえ、悪的な要素が半分も占めているのです。
東洋思想の根幹をなす「陰陽」の考え方も、まさにそういったものだと思います。
光があれば必ず陰があるのです。
逆に、大きな悪がはびこる所にこそ、大きな善も存在します。
争いを克服することで、大きな信頼関係が生まれるといったものではないでしょうか。
こういった考え方にすることで、日月神示の理解は深まると思います。
日月神示の神は大きく、そして永遠です。
近視眼的で小さなところだけを見ていると悪的であっても、より先のことを思い、視野を広めると、悪もまた愛であり歓喜なのです。
さいごに
「悪」の概念と価値観は、自分の善の心を成長させるのに必須の要素だと思います。
最近では日本人のモラルも、少しヒステリック気味になっているようです。
ネット上には批判と糾弾の言葉が溢れ、またそれに対しての議論が繰り広げられています。
しかし、善悪だけで様々なことを議論をしても解決も答えも出てこないことは、すでに多くの人が気づき始めているはずです。
悪を正しく理解をするには、神の性質の根本である「愛と歓喜」を善悪の判断の中に組み込むことが、真の問題解決になるのではないでしょうか。