日月神示が他の宗教とは少し違うところ・・・

当ブログ管理人が日月神示を紹介されて読み始めたとき、原始仏教の勉強をし、その中の教えを基に人生を送っていました。

「原始仏教」とは、まだお釈迦様がご存命の頃の仏教で、現在の日本の仏教とは色合いがかなり違います。

原始仏教での”出家”は、日本の仏教のようにきれいに着飾りお寺で修行をするというものではなく、ホームレスになることを意味するような過酷なものです。

そんな私はいくつかの宗教に興味を持ち、経典を読んだりもしましたが、日月神示はそのどれとも違う内容が書かれているのです。

現代人のいう「幸福」が得られるとは書かれていない

日月神示を読んでいると思うことに、他の宗教のように「こうすれば神が助けてくれて”幸福”になる」とは書かれていない感じがします。

それどころか「人類が経験していない苦しみを体験する」とまで書かれているほどなのです。

ただし”幸福”の概念は人それぞれです。

お金持ちになったり、素敵なパートナーが見つかったり、病気が治ったり・・・といったような幸福がありますが、それらはごく「一時的」な幸福です。

日月神示は厳しいことも書かれていますが、その根底に流れている教えは「世界の歴史が始まってこれまで全体的には良い方向に向かっている」ということです。

世の中には悲惨な事件や事故・歴史もありますが、それらすべてをひっくるめ「良い成長」をしているというのです。

ですから大きな意味では「幸福になる」と書かれているのですが、現在の私たちが望むような幸福は、日月神示を読んで実践を続けても得られる保証はどこにもないという内容なのです。

団体を作らせない

どの宗教にも「宗教団体」があります。

しかし、日月神示には主だった団体はないのです。

普通ならば神から啓示を受けた者が教祖となりますが、自動書記の役割を果たした岡本天明氏は教祖にはならず、日月神示の文章だけが残ったのです。

ただこれも「真逆のことが書いてある」という日月神示独特の内容から、私も「そうは書いてあるが違うようにも捉えられる」という文面もあります。

実際に岡本天明氏の奥さんが「光の会」という団体を一時的に開いておられたようですが、ある時期に日月神示の教えの理解から、”団体の役割は終わった”と言われて解散されてしまいました。

現在でも日月神示を読まれた活動家の中には、それぞれの解釈によって団体を開かれてはいますが、「主流」と思われるものはありません。

なぜならそこには「教祖」が存在しないからです。

日月神示の知名度を大きく上げた中矢伸一氏も有志の会を開かれ、『月間玉響』を刊行され広く日月神示の普及をされていますが、中矢氏自身が教祖というわけでもありません。

おそらくは大小たくさん日月神示に関する同好会的なものは存在するはずです。

また、私(管理人)のように個人で読み続けて信仰されている人も含めば、潜在的な絶対数はかなりおられるものと想像します。

実際にTwitterなどのSNSでも日月神示に関するアカウントは多く、私がこのブログでやろうとしているのとはまた違った方法で世間に向けて配信しようとされる人も多く存在しているようです。
団体を作った人、個人で信仰する人・・・それぞれにどれが正解かは私には分かりません。
ただ、みな高い志を持たれていることは確かなようです。

他の宗教も助ける

日月神示の中に登場する「日月の神」は、この世・世界・宇宙までも作り上げた最高級神だということです。

日本では天照大神が最高級の神だとされていますが、それよりもさらに高い地位におられる神であり、その実態が現れたとしても人間では認知できない存在です。

日月神示を降ろされた神も、最高級神ではなく、その”取り次ぎ”の神なのです。

そんな日月神示が他の宗教と格段に違うところは、「他の宗教との区別がない」というところだと思います。

むしろ「日月の神示(筆・文章)は宗教ではない」という解釈であり、キリストも仏教もその他の宗教すべてを受け入れ、そして「それらの人も同時に救う」といった内容なのです。

いろんな宗教を認められることも書かれていますが、逆に「最初(教祖)は良かったがその後に役員がめちゃくちゃにしてしまった」とも書かれています。

また、「どんな宗教をしていても構わない、祈り方が正しければ正しい神と繋がることができる」という意味のことも書かれています。

これは私の考えですが、日月の神は、神に手を合わすもの、合わさないものを同等に見られていると思われるのです。

時間軸が大切

また多くの宗教が「普遍性」を説くことが多いようです。

ハルマゲドン的なことも様々な宗教で教えられますが、この点は日月神示も同じです。

ただ、これまでの人類の歩みを踏まえて「新しい世界・人類が生まれる」といった意味のことが書かれていて、現代に生きる私たちがどうあるべきか「時間軸」を重視しなければいけないことが特徴的です。

その真意は私では理解はできませんが、古い書物であるにも関わらず、現在進行系な感じがするのです。

日月の教えを捨てろ・・・

日月神示の中には「神示(筆・日月神示)が分からなくなれば一度は捨ててみよ」と書かれています。

私もすべての宗教を知っているわけではありませんので断言はできませんが、こういった教えを説く宗教は他にはないのではないでしょうか?

こういった部分も他の宗教の教えと乖離しているところだと思います。

具体的なことがあまり書かれていない

仏教ならば座禅であるとか、イスラムの礼拝、またはキリスト教のボランティア、その他の宗教の勧誘や拡張など、それぞれの宗教には戒律や「これをしなくてはならない」といったものが存在します。

しかし、日月神示は難しく「神がするから余計なことはするな」という一文もあるように、具体的なことがあまり書かれていません。

私もいったいどうして良いか分からず、現在でも困ってしまっているのです。

ただ「魂の洗濯」をしなくてはいけないことは何度も言われています。

しかしそれも具体的に何をどうすれば良いかまでは書かれていないのです。

「どこで祈っても神とは繋がるが、”たまには”祀っている宮にも顔を出せ」といったあやふやな感じです・・・。

私は日月神示の教えを、「信心には形がない」という風に読み取っています。

また、日月神示にはいくつかの「祝詞」が書かれていますが、時系列的にどれを唱えればいいかも迷う始末ですから、私は朝と夕方に「たぶんこれだろうな?」というものを選んで祝詞を奏上するようにしています。

とにかく「考えさせられる教え」であることは間違いないようですね。

さいごに

私がその頃信じていた「原始仏教」は、実践しながらもどこかに「到達点」のようなものを感じませんでした。

日月神示も同様に到達点を見つけられてはいませんが、どこかにぼんやりとした「永遠の道筋」のようなものを感じたのです。

「神も宇宙も世界も人間も永遠に成長し続けている」といった壮大な雰囲気が、私を現在までこの書物に惹きつける原動力となったと思っています。

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