日月神示を読み進め「地獄はない」と書かれていることに驚いたことがあります。
「天国と地獄」はどんな宗教にもある概念ですし、日本人の私たちは古くからこれらの言葉を生活の中で使ってきているので、不思議な感じがしました。
人が死んだら閻魔様の前に行って、前世の行いによって天国行きか地獄行きかをジャッジする・・・これが多くの日本人の感覚だと思います。
そのあたりのところは今回私の考えを含めて書いてみました。
地獄はない・・・の本当の意味は?
日月神示では「地獄はない」とはっきりと名言しています。
そのかわり、自分の意思によて自ら”現世”に地獄的様相を作り出すことはあるとのことです。
これは、以前当ブログでも書いた「すべてのモノ事象は良い方向に向かっている」ということに繋がります。
ことわざの「人間万事塞翁が馬」にもあるように、一見悪いことが起こっているようでも、それは一時的な解釈であり、大きな目線から見ると全体的には良い方向に向かっている可能性もあるしその逆もあるということです。
たとえば、人を殺してしまった人は普通ならば「地獄行き」だと考えますが、こんなことをしても地獄には行かないということになります・・・。
これは被害者遺族からすればたまらないことですが、日月神示にはそう書いてあるのです。
以前、霊能家の江原啓之さんがコラムかなんかでこんなことを言っておられました。
「殺人を犯した者は過酷な魂の向上を選択している」
大きな罪を犯した人でも、そうでない善良な人でも、同じく”魂の向上・成長”に向けて時間を進めているということなのでしょう。
ただし、日月神示では数え切れないほど「身魂の洗濯」や「因縁」という言葉が使われます。
そして「我よし」という、自分本位で身勝手な行為、あるいは人を傷つけることも戒められています。
なので、やはり殺人を犯したとした、身魂が汚れて大きな因縁を魂にインプットされてしまいますが、その洗浄は現世で、あるいは来世で受けることになるということです。
天国についても日月神示では少し違う印象
日月神示を読んでいると「地獄」だけではなく「天国」の印象も少し違います。
みなさんは天国についてどんな印象をお持ちでしょうか?
私もそうでしたが、おそらくは「病気も争いもな悩むこともなく、なんでも思い通りになり楽しくほがらかな毎日を永遠に送り続けることができる」といったものではないでしょうか?
しかし、日月神示を読み続けることで、”天国の概念”も少し変わってしまいました。
ここではっきりしないのは「天国と神界」の違いです。
天国は人間だけがいるところなのか、そこには神も共存しているのか、それが今でもはっきりしません。
ただし、大転換期が起きることで現世を「神の国」するとのことなので、似たようなものなのでしょう・・・。
そして、こんな一文もあります。
「神の国でも半分は嫌なことがある」
これは想像もしていない言葉でした。
ほぼ”万能”と思える神の国であっても、日常の中で「嫌なこと」が半分もあるのなら、天国もそんなところなのだと思います。
私の想像では、私たちが頭で考える「天国」は、怠惰な心が作った『妄想』であり、そんな世界はいつまで経っても訪れることはないのではないか・・・。
これが日月神示を読んだ私の「天国」に対しての感覚です。
地獄がないなら安心なのか?
では、「地獄がない」なら好きなことをしても安心なのか?というと、私はそうとは受け止められませんでした。
むしろ、”ないほうが恐怖”なのです。
地獄は現世でいう刑務所のようなところだと思います。
刑務所ならば、裁判で決定した刑期をまっとうすれば、社会からの冷たい目などはありますが、それでも一応は善良な市民へと戻ることができます。
それは人を殺してもです・・・。
地獄という概念もそれに似ていて、これは誰かが考えた想像だと思うのですが、針の山や血の池地獄、鬼にしょっちゅう金の棒で打ち付けられるといったものです。
しかし、逆に考えれば、自分が犯した罪をそんなことだけで免除してもらうのですから、ある意味地獄は「甘い処罰」だとも言えます。
日月神示で書かれているように「地獄はなく、汚れた分は自分で掃除させる」といったものの方が何倍も恐ろしいのです。
犯罪を犯して汚れた分は、その後の人生や来世で洗い落とされるのです。
殺人を犯して逮捕されて刑務所に送られても、犯人が大切にしてる家族にまでは咎められません。
しかし日月神示流の解釈ならば、犯人が最も大切にしているものを奪われる可能性は十分に考えられるからです。
もちろんそれは「魂の洗浄のため」にです・・・。
さいごに
今回は命とモラルに関わるところにまで話が進んでしまったので、中にはお気を悪くされた方もおられるかもしれませんので、先にお詫びを申し上げておきます。
これはあくまで私感であり、想像です。