日月神示~願い事・祈り方について~

ある程度信仰をしている人や神社によく参拝する人は、神前でどういった祈り方をするかご存知のはずです。
「神社では願い事をしてはいけない」というのが、現在の多くの神道で教えられていることです。
しかし日月神示を読むようになって、もしかしたらそれが間違いなのではないか?と思うようになったのです・・・。

神は神聖だが遠くてもいけない

神道でもどんな宗教でも、神はもちろん神聖ですし、神前や仏前は聖域です。

ですから、神の前では最高の礼儀を尽くさなくてはなりませんが、ここに私は違和感を感じるのです。

日月神示には、「人間は神の子だから」と何度も書かれています。

また「まつろえ」というワードも何度も出てくるのです。

”まつろう”とは、「まとわりつく」という意味もあるそうです。

子供が親にまとわりつくように、身近に神を感じることが大切なのではないでしょうか?

神様に手を合わす人でも、こっそりと悪いことをすることもありますし、モラル的にどうかな?というようなこともします。

もちろん神に手を合わせるような人ですから、犯罪に手を染めるような人は少ないと思います。

しかし、他人の相談に乗って挙げられなかったり、小さな嘘をついてしまったり、競争で誰かを蹴落としたり、ズルいことををしたり、肉体的な欲望にまみれるようなことは誰にでもあるでしょう。

そのときには神前から離れているために、神様は見ていないと考えているのでしょう。

そして、またお参りするのです。

正直な人ならばそこで懺悔もしますが、自分がした小さな悪を意識的に忘れようとすることも多いハズです。

その時に神道で教えるような「世界平和」を願っていいものでしょうか?

――私は違うと思います。

人間の罪は世界平和という大義でスポイルすることはできません。

たとえば、人を一人殺した人が、別のときに人の命を救ったとしても、人殺しの罪は精算されないのです。

「日頃の感謝」「人類が平和でありますように」といった”キレイ事”を参拝のときに祈るのでは、ずいぶん神様は遠い存在だと言えます。

自分の汚いところを洗いざらいぶちまける

日月神示には「どんな願い事でも聞くだけは聞いてやる」とか「寂しくなったら訪ねてこい」とも書かれています。

確かに神様も神前も敬意を払わなくてはいけませんが、神を”遠すぎる存在”にしてはいけないのではないでしょうか。

おそらく神様はどんな場面でも人間のすぐそばにいるか全てを見ていらっしゃっていることでしょう。

常にそれを感じていれば、それが「祈り」になり、「まつろう」ことになるのだと思っています。

自分の汚いところも過ちも、イライラも、不平不満も、欲求も怒りもすべて一度神前でお願いしたり愚痴をこぼし、洗いざらいぶちまけてみてはいかがでしょうか?

「そんな大それたことを!」と言われる宗教家の人もおられると思いますが、これ以外に神様をもっと近くに感じる方法はないと、私は思っています。

そして、何年も感情の高ぶりを祝詞を奏上した後に、神様に訴えていますが、逆鱗に触れたことは一度もありません。

きっと神様は、留守のときに部屋を汚して怒られる可愛いペットを見るような目で、見られているのだと信じています。

大難を小難に・・・

日月神示では「世界の大洗濯が起きる」という人類に対して大きな災害的不幸が起きるような予言が書かれています。

これは世界の成長には欠かせないものらしく、どうしても避けては通れない宿命です。

しかし、人間が改心して言動を改めれば、その程度がかなり楽なものになるとも付け加えられているのです。

祈りを献げるとき「大難が小難程度で済みますように」と毎日お願いするのが、正しい祈り方の形だと書かれています。

日月神示では「かへりみる(過去を振り返る)」「はぢる(これまでの自分を恥ずかしく思う)」「くゆる(後悔する)」「おそる(恐ろしく思う)」「さとる(理解する)」という考えを持つことが大切だと言われます。

世界平和を願ったり、日頃の感謝ももちろん大切なことですが、こういった一見ネガティブと思われる心の動きこそ、人間が正しい道を歩むためには大切なことだということです。

現代の価値観とは大きく違うことが分かります。

正しい祈り方から分かること

悪的な行為をそれほど悪いと書かれていない日月神示では、読めば読むほど「何が正しく何が間違いなのか?」についての人間が持っているモラルなどに対して変遷を求められている気がしてなりません。

そして、これら「祈り」に関して書かれている日月神示の言葉から察すると、現代人が気づかない「人間の誤ち」が浮き彫りになってきます。

それは現代人が「神を遠ざけてしまった」いうことではないでしょうか。

日月神示の中で詠われている詞に「花の白きに祈る人あり」という一節があります。

野に咲く小さな花を見て、それにさえ神の存在を感じるような、”身近に神様を思う感覚”こそが大切だと考えるのです。

そして、かしこまらず本音で神と接することが「正しい祈り方」だと私は思うのです。

さいごに

さいごに、日月神示ではあまり儀礼に対して作法などが厳しく戒められていません。
「形もある程度大切」といったような感じで書かれています。
大きな神社仏閣、宗教団体のような立派で荘厳で厳格な祭祀も大切ですが、もっと個人的で本音で神とつながるような祈りこそが求められていると私は感じるのです。
それは「子が親に話すように・・・」です。

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