善と悪と調和について

信仰している人は、そうでない人よりも「善悪の判断」に強い解釈を持っているはずです。

もちろん神様に手を合わして祈るのですから、信仰している人は”善人”なはずですし、そうであろうとします。

しかし、意外にもこの「善悪の判断」は難しく、また普遍的ではないことが日月神示を読んでいて思うのです。

日月神示を読み続けて感じた善と悪について、また最も大切な「調和」について私感を書かせていただきます。

形の変わる善と悪

「善と悪」とは簡単そうで難しい概念です。

場所によって、国によって、またタイミングによって善と悪は形が変わるからです。

たとえば、嘘は悪の部類に入りますが、他人のことを思ったり、誰かの将来を考えてつく嘘は善です。

また知人の子供が可愛くて頭を撫でる行為は日本では愛情表現で善ですが、これをタイ国ですると親は子供を侮辱されたとして腹を立てるので悪です。

日本では麺類をすすって食べることは、正しい食べ方なので善ですが、日本に来たヨーロッパの国の人は不快に感じるので悪です。

ドイツなどは手を上げて店員を呼ぶだけで、ヒトラーを連想させるとして悪的な行為だと決められています。

一夫多妻制の国では複数の妻を持つことは善ですが、日本では法律的にもアウトなので悪ですね。

このように善悪は場所・タイミング・それぞれのコミュニティによって形が変わるために、自分の持っている善悪のフィルターを他人に押し付けることは争いの原因になることもあるのです。

それぞれの人が持つ「善悪の決まり」は、決して”絶対”ではないということを知るべきなんですね。

――世界中には、その国の善の決まりを守らない悪人が必ず存在します。

いわゆるアウトローのことですね。

しかし、このアウトローが起こす争いは非常に小さなもので、他人の命を奪うこともありますが、それでも小規模な争いです。

これに対して世界の国と国との「戦争」はそうはいきません。

何十万、何百万という人が命を落とし、長きに渡って守らてきたその国の文化、慣習までも破壊してしまうこともあります。

しかし、この国家間の戦争は悪人がするのではありません。

国と国ととの戦争は「善人」がしています。

それぞれの国の兵士や軍関係者は自国民を助けるために戦うのですから英雄です。

英雄は「善人」だから英雄なのです。

「調和」という考え

日月神示には「調和」という言葉が頻繁に出てきます。

一般的には調和は(ちょうわ)と読みますが、日月神示では「まつり」と読んだり、あるいは「調和が神」という解説が書かれていたりもします。

また「神には善も悪もない」とも書かれていますから、その”調和”という感覚を早く持たなければならないということが感じられるのです。

調和は「和」です。

日本のことを「大和」とも言いますが、これにも「和」という言葉が使われ、その上「大」が付随されているので、日本自体が調和という言葉を非常に大切にしていることがうかがえます。

そして日月神示には「自分と異なる考えを持つ者と和すこと」が大切だとも教えています。

調和自体が神の行為そのものだとしたら、日月神示を読む人もその概念をしっかりと自分のものにしておく必要がありあそうです。

人間関係での調和の方法

毎日普通に暮らしている私たちは、戦争のような大きなことよりも日常の人間関係の方が現実味があります。

日月神示にはそのへんのところにも教えが書かれています。

日月神示での人間関係の調和法は「相手が8で来るならばこちらは2で」「相手が6で来るならばこちらは4で」といったような方法を取ります。

これと反対の行為が、いわゆる”マウンティング”であり、自分がいかに優位な立場を確保できるかという「陣地取り」的な方法です。

これは相手の出方に対してそれを受け入れ、ほどよいバランスを目指して関係を維持するのです。

もしこれをすべての人ができるのならば、日本国内から無用の争いは消えるのではないでしょうか?

相手が8割で来たときに、こちらが2で対応するのであれば、それは「自分を失っている」と解釈する人もたくさんいますが、その考えこそが争いを引き起こすのです。

善が人を傷つける?

現代ではインターネットが普及し、その中でさまざまな事件や問題が起きています。

ネットでの中傷などで自殺をする人もいるのですから、軽視できるものではありません。

しかし、インターネットがすべての元凶ではないように私は思っています。

インターネットなどただの”道具”に過ぎず、それを操っているのは人間です。

たとえば「包丁」は調理には欠かせないものですが、使いようによっては人を殺めたり犯罪に使うことができます。

包丁で殺人が起きるからといって、包丁が悪いわけではないのと同じことなのではないでしょうか。

そして、ネットの書き込みの中には、明らかな誹謗中傷もありますが、もっと善的な発言で人を傷つけてしまうことも起こります。

いわゆる「モラル」というやつです。

モラルは基本的には「善」であり、みながそれを守ることである程度の平和を維持することになります。

しかし、モラルは融通が効かないというか、全能ではなく時折牙をむくことも少なくありません。

インターネット上でもモラルをかざして他人を批判する人が多く見られますが、言われた人は深く傷つくこともあります。

モラルで誰かを批判した人は「善いことをした」と満足げですが、これをまったく無関係の人が冷静に見たときに、それが果たして「良いことが起きた。問題が解決した」と思うでしょうか?

きっと思わないはずです。

極端な言い方をすれば、モラルを持って他人を傷つけるその様子は、悲惨な戦争を見ているときに近い印象なのではないでしょうか?

これはネット上だけではなく会社や学校、家庭内、友人関係の中でも起こりうることです。

私は善が人を傷つけることもあるということも強く意識し、言動に気をつけるようにしています。

さいごに

一般的に「善悪」は絶対的なことのように考えられますが、日月神示を読むとその考えの間違いに気づきます。

何が正しいかを議論する場所で平行線をたどり結論が出にくいことを考えると、それも納得できる気がします。

その問題を解決するためには「和」と「調和」を取り入れ、近視眼的な発想を切り替えることが大切だと私は考えるのです。

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