日月神示を読んで「この世の意味」を推測してみました

「人は何のために生まれてくるのか?」

人類永遠のテーマですね?

私などがこの難問に答えを出すなんて、恐縮ですが、日月神示を読んでいると、そこかしこにヒントのようなものを見つけることができるのです。

あくまで推測として参考にしていただければ幸いです。

「この世」のある意味~私の推測~

日月神示では頻繁に「三千世界」という言葉が出てきます。

私たちの住んでいる現実の世界と霊界、そして神の世界をすべてひっくるめたものです。

最近スピリチュアルの世界では、宇宙まで現実世界を拡大して述べられることも多いですが、私は地球以外の場所が現実世界なのか、あの世なのかは全く理解できていません。

ここでは分かりやすく「地球上で暮らす私たちの世界」を現実世界として話を続けます。

この三千世界には、私たちがしっかりと認識できる現実世界がありますが、時間の制限があったり、距離の制限があったり、他人の心の中が見えなかったりと、意外に不便な場所です。

一方、霊の世界は現実世界で暮らす私たちにとっては、非常に便利そうに思えます。

この世の中で霊的能力をつけようと人がするのも、霊世界の万能性のようなものを手にしたいからなのでしょう。

いわゆる霊能力、超能力といった類のものです。

しかし、日月神示で言われている「大神様」、全知全能の神は意味があってこの現実の世界を作られたのでしょう。

そして私たちが感じるこの”不便さ”もまた、意味のあることだと思います。

よく「人は幸せになるために生きている」と言われていますが、これは人間が口にしたことであり、その真偽は不確かだと私はよく思うのです。

それは日月神示の中に「汚れのない身魂はこの世にいない」と書かれていることから、思いついたのです。

もし、三千世界のどこかに、ほんとうに善人ばかりが暮らす場所があり、私たちが暮らすこの地球が汚れを精算する「刑務所」のようなところだったとしたらどうでしょうか?

私たち人間の世界でも罪を犯したものは囚えられて刑務所に入れられますが、もしかしたらこの地球こそがそんな場所なのではないか?と思うことがよくあるのです。

人間の世界での刑務所で、罪人がすることは、そこで富を蓄えることではなく、反省(改心)して暮らすことです。

決して欲望を果たすことを楽しみ、外の世界の人のような幸福感を味わうことではありません。

そういった仮定で物事を捉えると、この世の中にある不条理が不条理でないように感じるのです。

そして、別の項で書かれている「神の国にはまったく自由がない、しかし自由である」という言葉にも、この世の意味を解く何かが隠れているようにも感じます。

この世でしかできないこと

日月神示には「肉体のあるうちに身魂を磨け、肉体がなくなると身魂磨きが難しくなる」とも書かれています。

私たちが考える霊界は自由で何でもすることができ、霊性も高められると考えがちです。

しかし、死んで肉体を失うと、たしかにこの世とは異質の自由を得ることはできそうですが、肝心の「霊性を高める」ということができなくなると言うのです。

そして、日月神示にはしきりに「苦労しろ」「苦労の華を咲かせろ」などとも書かれています。

災害、不幸に会うことも、それは決して”天罰”ではなく魂の成長のために欠かせない工程なのではないでしょうか?

また神が愛され、特に大事にされている身魂に関しては「生き変わり死に変わり苦労をさせている」とも書かれいています。

いわゆる”神のエリート”というやつでしょう。

これらの内容を踏まえると、やはりこの世は単純に”幸せ”になるために生まれたのではなく、かなりハードな生活をすることが本来の目的だと思うのです。

私は以前、小さな子どもが殺されたり、戦争や犯罪で善人たちが死んでいくニュースを見ると、やり場のない怒りと悲しみに襲われていました。

しかし、もっと大局的な視点で人を見られている神から見れば、そういった悲惨な災いも「トレーニングの一環」程度のことなのかもしれません。

最近では、罪のない人たちが殺されたり死んだりするニュースを見聞きしたとき「神から最も愛されている身魂を持つ人」と思うようにしています。

「苦労」こそ、この世でしかできないことなのではないでしょうか・・・少し怖い感じもしますが。

まとめ

これまでのページで何度も断りを書いていますが、今回もあくまで”私感”あることを前提に読んでくださいね。

もちろん、私の考えが間違っている可能性は高いですし、自分でも少し飛躍し過ぎていると思うこともしばしばあるのです・・・。

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